胡蝶の夢
姉さま、貴女は地獄のような人でした。
死人のごとく漂い生きる日々で、ただ貴女という存在のみが、わたしを生かし、形作っておりました。
夢遊病を患っている姉さまは、今夜も障子を開けて外に出ようとします。ああ、出てはいけません。わたしは慌てて氷菓子のように冷たい姉さまの手を握り、その細く折れそうな身体を抱きしめ、その髪一縷に宿った馨しさに身を焦がします。外に出てはいけないのです。外に出ると、恐ろしい魔物が美しい貴女を連れ去ってしまうから。薄紫の襦袢が肌蹴て、しとやかにわたしを誘います。卑しいわたしは、目を閉じ、合わせの隙間から覗く白肌にそっと唇を寄せました。ふるる、と姉さまの肌が震え、口づけた場所がほんのりと色づきます。零れ桜のようでした。
少しわたしと姉さまのお話しをしましょう。
姉さまは、わたしとは違う世界に生きるお方でした。子を産み落としてすぐに死んだ妾、それがわたしの母です。奥様や親族から疎まれていたわたしを、一番気にかけてくださったのは姉さまでした。わたしは母が死んだ後、使用人としてあのお屋敷に雇われました。父であるはずの旦那様はわたしを表には出したくないようでした。
そもそも妾というのは子孫を残すために設けられた存在ですから、名家ならば庶子であっても正妻の子として扱われるのが普通でしょう。いいえ、わたしの待遇を憂いだことなどありません。屋敷の一人娘だった姉さまは、唯一わたしを本当の家族のように扱ってくれました。わたしは、それだけで十分だったのです。
姉さまは生まれつきお身体が弱く、床に臥せっておいででした。果敢無げに障子の外を見やるお姿は、何とも言えず美しく、透き通るようで、現身とは思えないほどでした。そして自分はどうしてこのような身なのか、それがどんなに不幸であるか、いつも考え、嘆いているようでした。
やがてわたしは、籠の中にいた姉さまを外の世界へ連れ出してあげたいと思うようになりました。
ツン、と空気が凍りきった冬の日、わたしと姉さまはひっそりと屋敷を抜け出しました。背におぶった姉さまのか弱い体温と、息が弾む度に肺を刺す痛みが、生きているということを実感させました。
「ただ、恋をしていたのです」
令嬢を連れ去り、監禁していた女は、最後にこう言った。彼女たちがお互いに想い合っていたのか、女の独りよがりだったのか、今となってはわからない。
女は、恍惚とした表情を浮かべ、姉さま、姉さまと繰り返す。まるで彼女が慕った存在がそこに存在するかのように。令嬢は、女が連れ去った数週間後に息を引き取っていた。女は半年もの間死体と共に生活していたのだ。
腐りきり、骨が抜きんでた『令嬢』に、女は躊躇いもせず愛おしそうに頬ずりをする。
現実か、夢なのか、わからなくなった女は、耽美なおぞましさにその身を任せる。言葉が届くことは、二度となかった。
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