余寒
例えば、死の直前に見る夢は、ひどく優しいものが多いという。
目を覚ますと、数センチほど開いた窓から吹き付けた、温く柔らかな夜風が男のやせた頬を撫ぜた。もうずいぶんと長い間手入れをされていない庭に生い茂る草木のみどりが夜の湿り気と混じり、鼻腔をじわりとあたためる。
春の初め、いくら暖かくなってきたとはいえ夜は冷え込む。男は自身の冷たくこわばった手のひらを二、三回こすると、鈍い動作で立ち上がり窓を閉めた。
乾いた咳が肺を刺す。男は再びゆっくりと腰を下ろし、傍らに丸まっていた毛布を胸の上までたぐりよせて身をうずめた。所々茶色いシミがついた毛布からはすえた臭いがした。
妻が二年前に病死してから、男は寝床をリビングへと変えた。窓際に敷いた来客用の布団はつまめるほどに薄く心もとなかったが、妻を失った直後、おそらく無意識に生活感の染みついていないものを欲していたのだろう。
乱雑に散らかった部屋の中を見渡すと、積み上げられたカップ麺のごみの中で、綺麗に二つだけ積まれた猫缶が目に映った。
飼い猫のミーコは、妻が死んだ翌日に老衰で死んだ。一人と一匹になった部屋で頭を一撫ですると、にゃあ、と目を細めてミーコは鳴いた。慰めのようにも、さよならの挨拶のようにも聞こえた。わたしはあの人についてゆくけれど、お前はここで好きに生きろ、とでも言っていたのだろうか。
男は、また深く空気を吸い込み、目を閉じる。
まぶたの裏で見る夢は、春の日、うららかな昼下がりのこと。
かすれた声で口ずさんでいたのは数十年前の春祭りで流れていた歌謡曲。川辺に並んだ桜から舞い散った薄紅色の花びらが、青緑に濁った川に花筏をつくる。ゆらゆらと流れる花びらの群れを、通りすがった小鳥がついばみ、軽い水しぶきがあがった。露店の店主が放った威勢のいい声と、祭りを楽しむ人々の笑い声が鼓膜を心地よく揺らす。穏やかであった。
いつの間にか、男の横には妻がいた。出会ったころの姿にも、亡くなる直前の老いた姿にも見える妻は、ミーコを抱いて優しく微笑んでいた。その表情は薄くぼやけ、泣き出しそうにも見えた。いや、泣いていたのは男の方だった。妻の腕の中で、ミーコがにゃあ、と鳴く。
「そうか、私も行っていいのか、そちらに」
脳内を緩く侵す優しい夢は、自らを抱きしめるように慰め、癒す。頭上に振りそそぐ橙色の暖かな日差しと、鳥の鳴き声、ひらひらと舞い落ちる桜の花びら。男にとって、それはもはや現実であった。
窓が閉められた十畳の部屋のなか、吹くはずのない、柔い春風が男のつめたい身体を包んだ。
濃紺の空が白んでいき、窓辺に淡い光が差し込む。
花冷えの朝、もうすぐ夜明けがくる。
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